昭和48年05月09日 朝の御理解



 御理解 第49節
 「信心は相縁機縁。」

 不思議な縁で御縁を頂いて、そして金光様の御信心をさせて頂くようになった。合楽に御神縁を頂いた。おかげで、一年一年有難いおかげを頂いてきた。思えば思う程不思議な縁であった。その縁をひとつの機縁として、この様なおかげになってきたと言えれるおかげを頂いていかなければいけん。ただ縁を頂いて、合楽に御神縁を頂いたけれど、金光様の御信心するようになったけれども、いっこう大した事もないと言う様な事では、神様に対しても相すまん事だし、自分としても又つまらん事ですから。
 私は信心は相縁機縁とこう御教え下さる。御理解第四十九節と言う事から感じたんですけれども。四十九節というのは(しじゅうく)節とある。始終苦と言う事は、何時もが苦労だと言う事です。そういうふうに感じたんです。そこで信心をさせて頂く様になったら、段々その苦労もですもう本当に、嫌な苦労であるのですけれども、その苦労が有難い事になり。そしてそれが尊い苦労になりと言う様にです、折角四十九(しじゅうく)、教祖様もそこの所を一生が修行じゃと仰るのです。人間はもう一生が修行だと。
 それは例えば、金があるから無いからと言った様な事じゃない。立派なお家に住んでいるから住んでいないからと言う事じゃない。人間の心の中に感ずる所の、あぁ嫌だ嫌だと思うような苦労。所が信心をさせて頂くようになって、段々おかげを頂いてくる。そうすると、苦労が苦労でなくなり、修行と感じるよになって、有難い事だと言う事になってくる。その信心が段々成長して行って参りますと、信心によってお徳を受けて、もちっと修行がしてみたいと言った様な尊い苦労と言う事になってくるのです。
 ですから私共が一生涯、確かに始終苦であろう。けれどもその苦労の内容がです、ああいやだいやだと言う様な苦労から有難い苦労になり、それが尊い苦労になってくると言う様にです。尊い信心修行と言う事になって来る様なおかげを頂いて、始めて金光様のご信心させて頂く事が有難い事であり、分けて合楽に御神縁を頂いたと言う事が、こういう尊い事になって来たんじゃという。所謂神恩報謝の生活が出来る様になる。
 そういう私共が順序をたどった有難い。始め様々なそれこそ相縁機縁であり、例えば私と秋永先生の場合なんか、もう本当に相縁だろうと思うです。やっぱ縁が別にどうとう言う事でもなかったけれども、まあ親の祈りというかね。それが今日ここで信徒会長でもなさる程しの信心に進まれた。そんなら高橋さんにしてみると、どう言う事かと言うと、相縁ではなく機縁だったと思うのです。もう不思議な縁だった。
 それはそんなら秋永先生を通して、お得意さんであったあちらのお母さんが、お得意さんだった。それであちらへちょいちょいお出でられる時に、高橋さんにめぐり会われて、秋永先生に言わせると「ちょいとこの人は古風な人じゃった」という訳なんです。信心てんしの字を言う様な人じゃなかったけれども、ある事で一遍とにかく、当時の椛目に行って見れと言う様な事で、御縁を頂いたのですからまあ機縁でしょうね。それがですそんならその二人の相縁でもあり、機縁でもある事がです。
 もう本当に不思議な不思議な働き合いになってきて、今日只今のようなおかげを受けておると言う事になっておる。何とはなしにこう何と言うんですかね、合った縁又は不思議な縁と言った様な縁がね、段々募りつのってどう言う事になってくるかというと、今申しますように同じ苦労であっても、あぁ嫌だ嫌だと言う様な苦労から、本当にこの苦労から脱却したい、解脱したいというだけの思いで入信のおかげを頂いて、それが段々おかげを頂いて、有難いという苦労になって来苦労がなくなるのじゃない。
 それからそれが段々おかげだけじゃない、お徳を身につけさせて頂くと言う事になってくる時にです。本気で信心の苦労をしてみたいと言う様な、いやさせて頂く事が尊い事になってくる。尊い苦労に進んで行くと言う事が、その人の信心が進んでいきよる事であると私は思うです。四、五日前だったでしょうか、久留米の佐田さんのお婆ちゃんが、ここでお届けされます。親先生考えてみますと、本当に合楽に御神縁を頂いてこの方、もう二十年になりますでしょうか。
 本当に信心を頂くようになって一年一年、有難い事が増えて来た様に感じますと言っておられます。いわば有難い合楽に御神縁を頂いておったと言う事が、本当に有難い事であったという。その有難い事が一年一年増えて来た。昨日は久留米支部のお祭りでございましたから、佐田さん所の佐田さん一家を中心として、本当に盛大なしかも賑やかな、もう思いを一杯込められたお祭りが奉仕されました。何というても、佐田さんの信心がああ言う所におかげを受けられた訳でございますけれども。
 私は昨日感じた事は、有難いと言う事から、尊い信心の苦労というか、尊いと言う所へ、足を踏み入れておられるという感じです。おかげという世界から、お徳の世界に足を踏み入れて行こうとしておられる姿を感じました。ですから愈々尊い苦労というか、尊い修行と言う事は限りがない事ですし、昨日からも申しますように、お徳を受けると言う事になったらね、もう是は絶対信心は緩められないのです。緩められないというかね、もう馬鹿らしゅうなってくるです。
 お徳が身について来る事に成って来ると、もうそれが尊い事になり有難い事になる。それを積み上げていくという所謂積徳ですね。生きたくば神徳を積みて長生きをせよという昨日の御理解。徳を積んで行くと言う事は、限りがない事です。それは丁度学者が眼鏡をかけて、歳をとっても本を読むようなものであるように、学徳が身について来ると言う事が、こよない尊い大切な事になってくのですから揺るぎようがない。只有難いというおかげの時代はです、自分の思うようにならんで、おかげにならないと、これ程信心するのにと言う様な思いが起こって、もうそこから信心がいわば堂々巡りを始めてくるのです。そういう人達が大体多いです。
 そこでどうでもお徳を受ける、お徳を積んでいく信心修行というものがです。昨日一昨日でしたかテレビで十三時ショ-でやってましたが、東京のどこかにおられる八十幾つぐらいのお婆さん。私は途中からでしたけれども、八十幾つ位のお婆さんでした。もう髪をこうぼうぼうしてどこの婆さんじゃろうか、というごたる人だけれどもいつもね胴巻きに沢山な金を体に巻いておられる。財産は四億円と言われるけれども、実際ずっと見積もってみたらやっぱ十億ちかくの貯金を、たった一人でしておられる。
 この人は過去を語りたがらない。大体は娘の時にまあだ十幾つの時に、東京へ出てきて水商売なんかに入られたらしい。それからコツコツと働かれて幾つも店を持って、幾つもマンションのようなのも持って、それで色々してましたがね。お婆さんお金を貯めるコツというのはどう言う所にありますかち言うてから。そしたらコツち言うのはありませんよ。商売人はねお客さんを大切に大切にする事ですよち言うてましたよ。
 それより他にコツはないて。普通大切にというのですけれどもね、大切に大切にする事だとお客さんを。これがコツだと。さあ一億が二億になった。二億が三億になったと言う事になってくるとです、もうそれこそ今でも自分の、大きなマンションなんか、何とかビルと言うビルを持っちておられる。自分の部屋には冷房なんかしちゃなか。自分が作っとる所に、冷房のある所で過ごすと。
 テレビもそこにあるテレビを見ると言った様な、しみったれと言うたら、こげなしみったれはないだろうと言う様な、感じですけれどもね。どの商売もどの商売も繁昌する。それはとにかくお客さんを、大切に大切にする以外にはないとこう言っておる。もう貯まって来る事の、それは守銭奴と言うてもいいかも知れませんよ。けれども金を貯める事の為めならばです一生懸命。貯まる事が楽しみであるように、私共は言葉が悪いですけれども、積徳と言う事は徳を積んでいくと言う事はです。
 いうならば徳の亡者になり果てて行く事だと思うですお道の信心は。ですから私達の場合、徳を受けておるか、受けてないか分からないけれども、はぁこれが徳というもんだろうかと、こう感じる様になってきた。ですからそれをね例えば増やしていく事の為めに、一生懸命神様を大切に大切にする事になってきた。普通の者は大切にするぐらいの事。大切に大切にする。夕べあちらであんまりよばれ過ぎてから、帰った時にはもう前後不覚に、覚えじゃった休ませて貰ってると言う様であった。
 けれども夜中ひょっと目が覚めたから、やっぱりちゃんとまた御神前に出てから御祈念させて頂いた。ただ大切にした位なこつならそげんせん。けれども大切に大切にさせて頂いておるから、それをせにゃおられんのである。よかよかと言った様なものがない。昨日佐田さん所でいうなら今の合楽の信心の、決定版と私の信心には、いつも何ケ月おきかで、ひとつの決定版というのもがありましょう。信心はここに極まったと言う様なものを、いつも感じておる。
 そしてそれが、又しばらくしておると、又次のより本当の事が感じられてくるようになってくるのです。昨日の、あちらでの御理解の中に、一昨日の御理解でしたかね。思うようにならんと言う事を、心の田地の肥料にすると言う事でしたね。思うようにならんと言う事を、いうならば一切を御事柄として受けて行き、一切を成り行きを大切に大切にさせて頂くという、その生き方。是が合楽の生き方。これを、真の信心だという風に。そこからおかげが受けられると言う事。
 だからこの事を、いつかの壮年部会の石井喜代司さんの話からとってです。この人なんかはいうなら、難儀な事というか、困った事というか、思うようにならない時を、楽しんで大事にしておるという感じです。だから、成程、ひとりでに物が出来るようにおかげを頂いておる。もう三人の子供が、とにかく、親勝りのおかげを頂いておる。家内がおかげを頂いておる。商売も段々おかげを頂いておるというように、何もかにもがおかげになっている。
 これは思うようにならない事を、全てそれを、ああ困った事だと言わずにです、それを普通の人は、困った事だ、難儀な事だという事を、自分の心の根肥やしにする。信心の根肥やしにする。そこから生まれてくる。そういうおかげを頂く為めには、そういう生き方を、まず身につけなければならない。けれども、こういう生き方は、金光様の御信心じゃなくっても良い。信心はなかっても良い。
 トルストイという人の書いた小説に、「イワンの馬鹿」というのがあります。もう本当に、馬鹿になりきって、そして沢山財産を作っていくという、幸せになっいくという筋の小説ですね。どんな事があっても、もう馬鹿と阿呆で、いわば道を開くという、ひとつの真理を元にした小説だとこう思うのです。ですから、それはほんなら、イワンの馬鹿でもです、いよいよ馬鹿になりきってしもうたらです。いうならば、思うようにならん事ば、有難いとこう受けて行くのですから。
 思うようにならん事を、自分の心の田地の肥料にしてゆくのですから。これを一手覚えたら、もう絶対のおかげ。これはそんなら、イワンの馬鹿でもおかげを頂いていくという事。だから信心がなかってもです、これは天地の道理ですから。いうなら、有難いというおかげならば、金光教と言うことは要らん、必ず合楽という事はいらん。いや、信心はなかっても、この一手をもし覚えるならばです。おかげの世界に住む事は出来るいう事です。自分自身が助かる世界におる事が出来るという事です。
 思うようにならん事が、これを受けたらおかげになると思い込んでおりますから、やぁ有難い、いらっしゃいち言うごたる気持ちで受けられるとじゃ。どういう損になる事を言われようが、恥になる事を言われようがです、まぁ有難い。これで行きゃおかげが受けられるという。だからそういう生き方を身につける。ただし、これは、昨日の御理解を借りますと、長生きをする。
 生きたくば信心をして長生きをせよと。いうなら長生きという事を、永劫生き通しと言う様な意味に於てのおかげを頂いていくと言う事にはならん。ただ自分の子供やら家内やら、お店やら繁昌したり、立派に出来ていったり、自分はいつも本当に極楽のような世界に住む事は出来る。自分自身が助かる事は出来る。けれども是はそれこそ喜代司さんの言葉を借りると、天地は恩着せずに黙っておかげををくれるち言うのである。
 また事実そうなんです。ですから私共信心させて頂く者はです、本当にこういう難儀な嫌だ嫌だと言う様な苦労からです、その苦労の内容が分かってくる。それが神愛である事が分かってくる。ですからそれを苦労を苦労とせずに、合掌して受けてゆくと言う様な心のと状態になれば、心の田地が愈々肥えてくる。だからひとりでにものが出来て来る様な、人間幸せの有難いという世界に住む事が出来る。
 けれども是はどこまでも有難いという世界であってです、あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというものではない。昨日のね私がこれが、ぎりぎり合楽の決定版だというのは、これから先なんです。それで皆んなが徳を受けるように思うておる。それでは徳は受けん。これは信心がなかってもです、そういう生き方を本当に身につけていったら、ひとりでに物が出来るようなおかげが絶対頂かれると。
 商売は繁昌する。家庭は円満になる。けれども是は矢張り、佐田のお婆ちゃんじゃないけれども、一年一年有難い事が増えてくるというのは、そういう生き方を愈々身に着けていっておるから有難い事になってきた。そして最近ここで、五つの願いと言う事が言われるようになった。和賀心時代を創る。いわゆる自分の心の中にそういう和賀心の、和らぎ賀ぶ心の一切を、肥やしにしてゆけるような大きな受け方が、まず身についてそういう先に五つの願い。この五つの願いというのがです。
 これはお徳を受けていく事の決定版です。是は今日までのですよ又何ケ月しよると、もっと素晴らしい事になっていくかも知れません。ですからその時その時の、合楽でいうこれが決定版ばいと言いよる所までをです、お互いが身につけていきよらんとです。愈々尊いという今日の御理解でいうと、尊い苦労尊い修行と言う事になってこない。どうぞ体の丈夫を頂かせて下さい。どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さい。
 どうぞ子孫繁昌家繁昌の大みかげを頂かせて下さい。それをどうでも頂かなければです、真実の御用が出来ませんのですから。または神願成就天地の親神様が、世界中に和賀心を広げて行きたいと思し召す、そういう神様の願いが成就する事の為に、私を使うて頂く為には、ここの所の願いが成就しなけれは出来んのですから。子孫繁昌家繁昌繁昌のおかげを頂かなけれは、家庭が円満でなからなければ、体が丈夫でなからなければ、そういう御用にも使うて頂けんのですから。
 そういう五つ願いを私共が真剣にさせて頂く。そこからですそれが身ついて来る所から、私はお徳の世界と言う。所謂ただ自分の心の田地を肥やして行くというだけではない。ひとりでに物が出来る様になりましたというて悦に入っておるだけでなくて、そういうおかげを頂いて、そういう力を頂いて私が助かるだけではなくて、神様が助かって下さる。神様が喜んで下さる世界に足を踏み入れた所から、御神徳の世界徳を積んでゆく世界という事が言えるんだというのが、昨日の佐田さんの所でのお話の内容でした。
 成程神様が助かって下さる。神様が喜んで下さるという世界に、私共の信心が進んで参ります時に、始めて天地の御神徳というものが頂かれる。合点がいくでしょうが。只自分が助かるそれこそひとりでに物が出来るようなおかげ。是も私共の本当にどうでも頂かなければならない事です。ですからそういうおかげを頂くと言う事が、五つの願いのあの三つの所です。その為に成り行きを大事にしよう、全てを御事柄として受けていくと言う事。そこに一年一年有難うなっていくおかげの世界がある。
 そのおかげの世界から今度は、お徳の世界と言う事に成って来ると、そういう心をじっとしておかず、そういう力を神様に喜んで頂く働きに成って来る。そこから御神徳の世界。徳を積んでいくという世界。ここになってくる時にです、もう有難いとういう苦労ではなくて、尊い苦労いうなら尊い修行と言う事になるでしょうが、皆さん。そういうおかげをです、私共はね、相縁機縁とこう言う。こういう不思議な事で、こういう機縁をもってです、相縁をもって縁を頂いたのですから。
 その縁が苦労の只苦労という、始終苦という苦労から、その苦労が修行ともなり、修行と受けられるようになり、それを自分の心の根肥やしとも受けていけれる様になる所から、有難いという苦労になり。その有難い苦労がです、今度は自分が助かった、自分が助かるだけではなくて、自分の助かった余力を持って力を持って、神様が助かって下さる世界に入ってゆく。もうここになった時に、愈々尊い苦労と言う事になる。
 これを私共が一生、もうこれでよいと言う事はない。為には私共がそれこそさっきから申しますお婆さんじゃないですけれども、愈々お客様を大切に大切にと言われるように、愈々神様を大切に大切に、神様が助かって下さる事の為に、私共が奉仕いわば行使されるという生き方にならせて頂く時にです。本当に縁ちゃ不思議なもんじゃ、有難いものじゃこういう、有難い事になって来たと言う事に、なるのじゃないでしょうか。
 今日の御理解はいうならば、合楽の信心にある意味で一線を引く御理解です。ここの所を一つ皆さんが分かって、ひとつ有難い世界から尊い世界に入っていく。そこから是はまた限りない事でございます。徳を積んでいくと言う事は。私共の信心が果たしてどこを通っておるであろうか、ああこういう難儀は嫌だ嫌だと言う所の人も、まだあるかも知れん。だか、この難儀から助けて頂きたいばっかりに、お参りをしてきておるという人もありましょう。あっていいのです。
 次には佐田のお婆ちゃんじゃないけれども、信心させて頂くようになって此の方、振り返ってみると、一年一年有難い事が増えてきておるという、おかげの世界に住まなければならない。そこからです今度は神様が喜んで下さる。神様が助かって下さる。いうならば、本当の意味に於いての御用の世界。真実の御用が出来ますような、神願成就の神様の願いに応えられる程しの力を頂かせて頂きたいと言う様な意欲に燃えてくる時に、それは愈々尊い苦労と言う事になるのですよね。
   どうぞ。